春の雨の日、水たまりを飛び越えている有名な白黒写真を思い浮かべ、
自分が水たまりを飛び越えようとする瞬間を思い浮かべる。
そしてそんなことをしないのが自分という人間だと再定義する
写真でジャンプしているようには自分はジャンプ゛しないだろうと確信が持てる
あれは秋だ、銀杏が黄色く熟して、並木が一面にきらめいていた。若い私たちは私たちにふさわしい舞台と信じた。
雨の日、ワイパーが物憂く水滴を弾く。ガラスには防滴スプレーをしたばかりだった。
ワイパーが通り過ぎるごとに偏光したような斜めからの街灯が銀杏並木と建物を照らしていた
その頃の私たちはいいことばっかりだったと君が言うので
君についての診断は容易に決定できた
ある日、突然雨。おろしたてのハイヒールが水に濡れたと君は不愉快だった。
その時の状況は、新しい靴が濡れたとしても、私と過ごす時間の楽しさが帳消しにするだろうと
簡単に信じられるくらい、私が楽観的だった、と言えるだろう
そしてそれはまるで中国語と日本語で愛を勝手に語り合うような二人に違いなかった。
ふたりとも自分のスタイルが大事だったのだろう。それほどにナルシスト同士であった。
だからこそ愛しもしたのだが。
今になって思えばすべては小さなことだ。すべてのそのような困難にもかかわらず愛しあうことが愛なのだと
いまなら言えるのだけれど。
また、生活の必要があれば、愛はそれを接着剤として、変容して行ったのにと、思うこともある。
太陽の黒点が現実のあれこれを予言しながら自分勝手に進んでゆくように
私もまた地震の黒点に従いながら次第に深まる不幸と諦観のなかで心を殺して行ったのだ。